大判例

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鹿児島地方裁判所 昭和40年(わ)105号 判決 1965年10月28日

被告人 栗林力歳

昭九・九・二生 漁船員

主文

被告人を死刑に処する。

理由

(被告人の略歴および本件各犯行に至る経緯)

被告人は、大分県北海部郡佐賀関町で、漁業を営む栗林磯吉、同ツヤの二男として生れ、小学校卒業後は一本釣り漁船の漁夫として働いていたが、昭和二五年四月(被告人が一五歳の時)実母ツヤが死亡し、やがてツヤの妹ミトが父の後妻となつたところ、同女は食料品等雑貨の小店を出して病弱な父磯吉を経済的にもたすけ、家計一切を掌理して被告人方家庭によく尽したので、被告人もミトを実母のように信愛し、結婚後も送金はミト宛にしていたほどであつた。昭和三七年七月被告人は、従妹金子美那子と婚姻し、爾来父磯吉夫婦と共に生活し、その間同年一一月に長男を、同三九年一一月に長女を挙げたが、仕事の関係で自宅にいるのは毎年旧正月と旧盆の頃のいずれも短期間のみで、それ以外の大半は海上の操業に従事して来た。

被告人は、いくつかの漁船に転々と乗り換えたあと、昭和三五年八月頃、従姉小夜子の夫山口豊が船主兼船長である金比羅丸に乗り組み、同三六年三月頃同人が福神丸(四、八七トン)を新造してからは、同船の炊事夫として引続き乗船し、その後従弟金子進(妻美那子の弟)が炊事夫として同船に乗り組んだので甲板員となり、さらに浜田勝美が同船に機関長として加わり、以来船長山口豊、浜田勝美、金子進と共に同船で働いて来たのであるが、同船は夏場は静岡県沼津港を、冬場は鹿児島港をそれぞれ基地として漁業に従事し、冬場の場合は鹿児島県南方海上で、殊に昭和四〇年一月頃からは七島灘海域で漁をした。福神丸は、毎回一週間ないし一〇日間ぐらい出漁して鹿児島港に帰泊するのをならわしとしていて、被告人は、漁に従事するほか同船の会計係として漁獲の収益金等の取扱い、次の出漁の準備として必要品の購入などの仕事をして来たが、帰泊の際鹿児島市内のバーなどで飲食遊興しているうち、同市千日町バー「倉」の女給中野ミチ子と懇意になり、同三九年九月初め頃から同女と肉体関係をもち、帰泊の際は同市松原町の同女のアパートで寝食を共にするに至つたのであつて、同女に対し毎月約一万円を与えるほか、その家賃を支払い、テレビを月賦で買い与えるなどしていて、妻子のいる家庭へは他の乗組員に比して遙かに小額しか送金しなくなつた。船長山口豊は、被告人が二児の父親でありながら家庭への送金は怠りがちであるし、性格も気が荒く、大言壮語してわがままなところがあり、他の乗組員とも融和を欠くところがあつたので、同四〇年初頃から被告人を下船させたい意向を浜田勝美等に洩らしたことがあり、一方被告人においては、同三九年八月頃から、独立して漁船を建造し、一本釣漁業を自営する意図をもち、同四〇年に入つてからはひそかに右造船のため金策の工作を進めていた。このようなとき、同年二月一日頃、被告人の妻の兄金子春雄が、酒に酔つて被告人に対しその素行につき訓戒したことから口論となつた末、「船長の悪口をいうのなら船を降りろ。」と言つたところ、被告人は福神丸を下船すると言い出し、山口船長はこれを了承したが、父磯吉が極力新船建造に反対したため、右春雄が被告人の再乗船を許してくれるよう山口船長に懇願した結果、被告人はまた従前どおり同船に乗り組むことになつた。

福神丸は、昭和四〇年二月二〇日頃佐賀関を出港して基地鹿児島港に向い、その後七島近海で操業し、同年三月八日頃同港に帰泊したが、同月一二日再び同港を出発し、同月一四日から同月二三日まで悪石島近海や権曾根と称せられる海域で操業中、同月二三日午前一〇時三〇分頃、同所を通りかかつた同郷の漁船盛春丸の乗組員から、義母ミトが同月一五日頃死亡し(実際にはミトは同月一三日死亡)、被告人の帰宅を待つている旨伝えられるや、被告人は一刻もはやく帰郷したい念に駆られ、山口船長も被告人の右意向を察して直ちに鹿児島港に向うこととし、同日正午頃右漁場を出発したが、当時悪天候の日が多く、同日も南東の風が吹き雨も降つていたところ、福神丸が口永良部島付近に達した午後九時頃には風力五ないし六となつたので、山口船長は同船を同島本村港に避難させることを命じた。その際被告人は、そのまま鹿児島港へ直進するよう進言したが容れられず、舵をとつていた被告人もやむなく同船長の命に従つた。

(罪となるべき事実)

第一  右のとおり、福神丸は、昭和四〇年三月二三日午後九時頃、折柄の荒天のため、鹿児島県熊毛郡屋久町口永良部島本村港に避難して仮泊することになつたが、当時よりも遙かに悪天候の時にさえ航海したことがあるのに、義母の訃報に接し急いで帰郷する途上にあるのにかかわらず悪天候を理由に出港を拒否する船長山口豊(当三九年)の態度に不満をいだいた被告人は、夜半になつて風向が変化し鹿児島への航海が困難になることをおそれて帰心さらにつのり、同日午後一〇時頃同船内において、右山口に対してすぐ出港しようと要求したが、同人から断わられ、なおも被告人が「このぐらいの風では走りおつたじやないか。」と出港方を促したのに対し、同人から「ばたばたするな。われ(お前)が一人で何でも勝手なことをしやがる。」などと叱責されて憤激し、同船の甲板上において、同人の顔を手拳で殴打したところ格闘となり、双方えり首付近を握り合つてもみ合つているうち足がすべつて共に甲板上に坐るような姿勢になつた際とつさに右手を伸ばして同船内右舷(押し廻し)にあつたえさ切り用庖丁(刃渡り約一一糎)を握り、これをもつて右山口の腹部を二回突き刺し、同人の腹部に刺創ないし刺切創の重傷を与え、同人をして間もなく同船船首船長室内において右傷害に基づく出血により死亡するに至らしめ、

第二  右山口豊との格闘直後右甲板上において、浜田勝美(当二七年)に背後から抱きとめられるや、被告人は、振り返りざま右えさ切り用庖丁をもつて同人の前頸部等に斬りつけて同人に左前頸部に第七頸椎に達する深さ約六糎の刺創等を与え、次いで機関室から出て来た金子進(当一九年)に、「兄貴わら何するか。」と叫びながら飛びかかられるや、右庖丁をもつて左から右に払うようにして同人に斬りつけ、同人の左手腕関節部および右頤部に切創(いずれも軽傷)を与え、これら暴挙に驚がくした右両名が船尾船員室と機関室内に逃げ込んだあと、急拠同船のエンジンを始動させ、本村港を出発して外海へ向い、しばらくして前記浜田が右船員室の前部出入口(ハツチ)の蓋を内部から持ち上げ、ようやく顔を出して「何処へ行くのか。」と力弱く聞くや、「入つとれ!」と言いざま同船にあつた出刃庖丁(刃渡り約一五糎)の刃の方で同人の頭部を叩き切り、同人の右頭頂結節部に長さ五糎深さ頭蓋腔内に達し大脳に損傷を与える傷害を与え、同人が力尽きて坐り込んだあと、翌二四日午前五時頃、右船員室と機関室の出入口の蓋全部(三枚)にそれぞれ三寸釘数本(昭和四〇年押第四八号の二〇ないし二二)をハンマーで打ち込んで釘付けにし、浜田、金子の両名を閉じ込めたが、山口を死に致した以上生きては帰れない、同船を沈没させて自らも同船と運命を共にしようと決意し、同船に浸水させれば船内に閉じ込められた右浜田、金子の両名が溺死することを充分知りながら、同日午後七時頃、口永良部島の南東約七〇哩付近の海上を航行中、キール上面中樋の交通栓一個と機関室前部右舷側魚倉の底栓(スカツパ)一個(押収番号同号の八)とを順次抜いて、海水を機関室と船員室内に流入させて船内を水浸しにし、よつて同日午後八時頃右浜田、金子の両名を同船内において溺死させて殺害し、

第三  同日午後五時頃、右福神丸が口永良部島の南東約六五哩付近の海上を航行中同船内において、山口豊の死体を船内に置いたままでいるのが怖くなり、なお死体をそのまま海中に投げ込めば死体が船尾に浮いてついて来るものと考え、同人の死体を船長室から抱き上げ、これに船首にあつた重さ約八貫の錨一個を、長さ約一五メートルのワイヤーで幾重にも捲きつけて結んだうえ、同船右舷側から右死体を海中に落下させて遺棄し、

たものである。

(証拠の標目)(略)

(山口豊に対する犯行を傷害致死と認定した理由)

本件公訴事実中山口豊に対する犯行につき、被告人は、司法警察員に対する昭和四〇年四月七日付供述調書を除き、逮捕以来一貫して山口船長に対する殺意を否認している。ところで本件については目撃者がおらず、被告人の捜査官に対する判示各供述調書並びに当公廷における各供述を除いて他にその犯行の態様を知る方法はなく、さらに同船長の死体も発見不能なためその傷害の部位、程度を明らかにすることもできないが、被告人の右各供述によれば、被告人は判示のように鹿児島港に帰港したい一念から同船長と殴り合いの喧嘩となりもつれ合つて倒れた際、たまたま手の届くところにあつた刃渡り約一一糎の餌切り庖丁を持つて同人の腹部を少くとも二回突き刺し、間もなく同人をして出血死させたものであることが認められる。さらに前掲各証拠によれば、被告人は山口船長と親戚の間柄にありしかも同人の船に乗り組んで四年以上も一緒に働いていた仲であり、また義母の死亡後一週間以上を経過していて通常その死顔に接することはできないのであるから、たとい同船長に出港を断られたことに憤激した結果とはいえ、同人を殺害しなければならない程の心境にあつたとは到底認められないので、被告人は同船長との格闘中無我夢中で同人を刺したものであり、同人が自己の刺突行為により死に致るかもしれないと考える余裕はなかつたと見るのが自然である。被告人の司法警察員に対する前記昭和四〇年四月七日付供述調書中殺意に関する部分は余りにも唐突かつ簡潔に過ぎたやすく措信し難く、他に被告人の同船長に対する確定的殺意を認めるに足る証拠はない。また被告人の検察官に対する昭和四〇年四月一六日付供述調書中に「母の死を聞いて帰りたい自分の頼みをきいてをくれないと最高に腹が立つており、どうにもでもなれと云う気持で突き刺したことは相違ありません」(一五項参照)との供述記載があるけれども、右供述は被告人が、当時、自己の行為について如何なる処罰を受けてもよいとの自暴自棄的心情にあつたことを表わしたものと解するに難くないこと、また前述のとおり被告人が当時無我夢中で刺したものと認められること等を考えると、右供述記載によつては、未だ被告人の未必の殺意を認めることはできない。以上の理由で山口船長に対する犯行は傷害致死と認定した。

(法令の適用)

被告人の判示第一の所為は刑法二〇五条一項に、判示第二の浜田勝美および金子進に対する各殺害の所為はいずれも同法一九九条に、判示第三の所為は同法一九〇条に、それぞれ該当するところ、判示第二の各殺人は一個の行為で二個の罪名に触れる場合であるから、同法五四条一項前段、一〇条により一罪として犯情の重い浜田勝美に対する殺人罪の刑で処断すべく、その所定刑中死刑を選択し、以上の各罪は同法四五条前段の併合罪であるが、同法四六条一項本文により他の刑を科せず、前記殺人罪の刑により被告人を死刑に処し、訴訟費用については刑事訴訟法一八一条一項但書により被告人に負担させないこととする。

(量刑について)

被告人と各被害者との関係をみるに、山口豊は被告人の従姉の夫、浜田勝美は被告人の従兄の娘の夫、金子進は被告人の従弟で、かつ被告人の妻の実弟であつて、いずれも狭い漁村の近所に住んでおり、昭和三六年以来同じ福神丸に乗り組んで来た仲間として兄弟の如き間柄であるのに、被告人はこれら三名とも何物をもつても代えることのできない尊い命を奪つてしまつたのである。被告人は、義母の死を知らされ、一刻も早く帰郷したい希望が阻止されたのに激昂し殴り合いの喧嘩になつた上のこととはいえ、庖丁をもつて山口豊の腹部を二回も突き刺し死に致らしめたものであつて、殺意こそ無かつたものであるけれども、海上における船中の出来事であり、しかも被告人は傷害に対する応急処置を豪も意に介しなかつたのであり、また他からの応急手当を期待できない実情にあつたのであつて、その犯情たるや殺人に等しいものといつても過言ではないものと思料される次第で、その行為の責任は何といつても重大であり、さらに被告人の右犯行を止めようとした浜田および金子の両名に右庖丁で切りつけ、驚いて船員室に逃げ込んだ右両名を、その出入口の蓋を釘付けにして脱出不可能にしたうえ、船を水浸しにして溺死させた行為は、手段方法として極めて残忍であつて、重傷を負つた浜田の苦痛、殊に軽傷を負うたに止まつた金子の絶命までの長時間の苦悶の状態を推測すると実に耐え難い感がする。

被害者の遺族は、近親の被告人から家庭の主柱たる夫または子供を奪われて悲しみ嘆き、将来の生活についても途方に暮れており、浜田の妻の母の如きは、本件のシヨツクで精神状態に異常を来たしたため大分市内の精神病院に入院し治療を受けた程であり、また山口豊の遺族は、被告人により豊の死体をはるか太平洋の数千米の海底に沈められその遺骨を収拾するすべすら永遠に失つているのであつて、その悲痛の念は想像するに余りがあり、右遺族らはいずれも被告人に対し極刑を望んでいる。さらに被告人は本件犯行の翌日種子島東方海上で操業中の漁船に救助されるや、遭難を偽装し、船体を沈めて罪証を隠滅しようとはかつたが、海上保安部の海空に亘る大がかりな捜索の結果、福神丸が発見され遂に本件犯行が発覚したものであつて、その居住民の殆んどが漁師からなる被告人の居住地特に本件被害者らと同じく漁業に従事している漁船員に与えた衝撃は大きいものがある。

一方被告人には前科がなく、山口船長に対する犯行は偶発的なものであつて右犯行の動機及び同船長を死に致した後浜田及び金子の両名を死の道連れにしようと決意するまでの心情には同情すべきものがあり、亦鹿児島上陸後自殺をはかり現在深い悔悟の念のもとにあることは認められるが、それらの点並びに被告人の家庭事情等被告人に有利な諸情状を考慮してもなお被告人の責任は極めて重く、被告人に対しては極刑をもつて臨むほかないものと考える。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 藤田哲夫 徳松巌 久保園忍)

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